考えることは生きること、知識ではない。




昨日は大ポカをしてしまったが、
今日は間違いなく、ハンナ・ア―レントの映画を
鑑賞することができた。

ほぼ毎日、貴重な記事を送ってくれるNさんが
見て欲しいと言っていた意味がわかった気がした。

哲学をハイデッカーを師として学んだユダヤ人である,
彼女は強制収容所に入れられた経験を持つ。
収容所から逃れた彼女は、
ナチスの台頭するドイツから逃れ米国に亡命した。

映画は南米に逃れて隠れ住んでいた、
アドルフ・アイヒマンがイスラエルの諜報機関(モサド)に拘束され
イスラエルに連れ戻される場面から始まった。

帰宅途中にトラックに乗ったモサド要員に拘束された、
アイヒマンは裁判所ではガラス檻の中で尋問に答えていた。

その彼の表情を見ていたが終始感情の起伏は感じられなかった。
なぜだろうか?
この冷淡とも取れる態度に人間味はなかった。
これは必ずしも官僚特有のものではなかろう。

誰にもあり得る人間が陥る罠がある。
体制順応性と出世願望が、
命じられたまま課題(仕事)の善悪、影響を考えずに、
作業効率と成果を目指すという歯車になってしまうのだと思う。

考えよと言われても、考える習慣もなく、
一体どうすれば良いのか・・・と途方に暮れてしまう。

生きることが考えることだとすれば納得しやすい。

言われてみれは、確かに考えることと知識はイコールではない。
寧ろ、悪の凡庸性こそが無思考とイコールなのではあるまいか?

ごく普通の人間が超残忍なことを平然とやってしまう、
狂暴性が隠れていることをア―レントは、
アイヒマンの証言から導きだしたのだ。

しかし、同じユダヤ人がアイヒマン一人を
極悪人として押し付けるのも卑怯な話だが、
民族愛がないのか?・・・と凡庸性が簡単に悪を成しうることを見出だした、
ハンナ・ア―レントに迫る場面が皮肉に思えた。

これにア―レントが民族を愛したことはない。
友人を愛すと言い切った場面には感動した。

民族(愛)主義に拘れば、
紛争の種が芽吹きかねないし差別を生みかねないからか?

ア―レントは非難の声にも臆せず、教授職を解くと言い渡されても、
学生が待っている・・・と解雇発言をものともせず、
教授を止めないと言い切った。

迫力ある場面だった。
このように自分の考えを堂々と力強く講義する場面は、
何とも言えず、拍手を送りたいシーンだった。

ア―レントは人間は根源的なところで、
意思を捨てる弱さを持っているということを教えているのではないか。

この状況から抜け出られなくては、
民主主義は実現し得ないのではないのかもしれない。

考えれば考える程、同胞から離れて行く。
思考することは孤独であるとハイデッカーも説く。

暴走を続ける安倍政権にNOをぶつけるには、
各地でアイヒマン議員を非難しなければなるまい。

「ハンナ・ア―レント」 素晴らしい映画だった。





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