責めるべき相手が違うのではないか?

ニュースは如何でもよいことを垂れ流して、国民感情を煽っている。


ここ暫く、桜宮高校体育科云々という記事が何度も流されていた。

今日の言葉にあるように教師は模範を示さねばならない。

どんなに言葉で教えても生徒の身に着くことが、

少ないのは仕方がないことである。


人間は習慣の動物とも言われているのだ。

習慣は家庭や学校で繰り返し行うことで身に付くものである。

親の背中を観て、子どもが育つと言われるように、

学校教育に関しても教師の背中を観て生徒は育っていくのだ。


続いて、教師の退職金の減額が決定したことに、

計算早い教師が早期退職を選んだということが、

また、さも悪いことのようにニュースとなった。


現在は資本主義社会なのだ。

そこで教師が損得で早期退職を選んで何が悪いのだろう?

教師とて霞を食べて生きているわけではなく、

ましてや聖職と崇めても籠に閉じ込めておくわけにはいかないのだ。


教師はお手本を示す聖職!?

願わくば教師には模範行動で示してほしいと期待する以外にはないであろう。


勿論、生徒と教師の関係は大変尊い関係である。

それだからといって教師の生活保障は別のものであるのに、

このような国民感情を煽って、何が解決できるのだろうか?

こうする前に削減する時期を検討すべきであった。

学校年度に合わせた期限を設定すべきであったのだ。


新自由主義の嵐で国民生活がガタガタになった。

このきっかけを作った小泉政権の政策を批判することなしに、

現場の行動を批判しても始まらない。

国民が郵政民営化の実態も知らされず、

騙されたと思った時には後の祭りだったではないか。


その二の舞が教師に降りかかっているときに、

逃げを打った教師を責めていることに過ぎない。


目標を設定した偏向報道を繰り返し、

コンセンサスを得たと嘯き目的を達成しようとしている。

その目的が何かを考えなければならない。

そうすることで責めるべき相手が違うことに気づく。



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今日の言葉  平成25年1月28日(月)
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「道を修むる之を教と謂う」、
 どうしても教というものが要る。
 教という字は、
 単に口でおしえるばかりでなく、実践を伴う。
 即ちお手本になる、
 人のならいのっとるところとなるという意味である。
 だから「教は效(こう)なり」という注釈があるわけです。
 教育とは、教師が生徒のお手本になって、
 生徒を実践に導いてゆくことであって、
 ただ言葉や文句で教えることではない。
 言葉で教えるのは、訓とか、誡とかいうものであります。

 『安岡正篤活学一日一言』より(致知出版社刊) 

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この記事へのコメント

堀本秀生
2013年01月28日 11:06
安倍内閣は地方交付税を減額し、教師の退職金を減らすのです。
これは地方にお金を回さない政策です。
記事の通りです。


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